続・渋沢栄一について話そうか 妻と妾の話

こんにちは。
ソーシャルインベストメントのふなぐちです。

さて、前回は「渋沢栄一」の話をしました。

新一万円札の顔になり、日本資本主義の父と呼ばれ、約500もの企業に関わったとされる人物です。

ここまで聞くと、どうしても立派な人に見えます。

教科書の中にきちんと収まり、お札の中で静かにこちらを見ている人。

そんな印象です。

ただ、渋沢栄一の人生を少し奥までのぞくと、きれいな偉人伝だけでは収まりません。

この人は、かなり生々しい。
かなり面倒くさい。
そして、かなり人間くさい。

今回は、そんな渋沢栄一の裏側を見ていきたいと思います。

まず外せないのが、岩崎弥太郎との確執です。

岩崎弥太郎といえば、ご存じ三菱を作った男です。

渋沢栄一が「多くの人の資本を集めて、社会に必要な事業を作る」という考え方だったのに対して、岩崎弥太郎は「強い経営者が権限を握り、一気に事業を進める」という考え方でした。

どちらも明治の怪物です。

ただし、怪物の種類が違います。

渋沢栄一は、資本を広く集めて、大勢の力で事業を育てようとしました。

一方の岩崎弥太郎は、会社の力を分散させるよりも、強いトップが判断し、責任を負い、利益も支配も握る方が事業は伸びると考えていた。

いわば、渋沢栄一は「みんなで作る資本主義」の人であり、岩崎弥太郎は「俺が引っ張る資本主義」の人です。

この二人が、ぶつからないわけがありません。

面白い話があります。

あるとき岩崎弥太郎は、渋沢栄一を誘って船遊びの席を用意しました。

場所は向島あたりの料亭だったとされ、芸者もかなりの人数が呼ばれていたそうです。

ふつうなら、酒を飲み、船に乗り、景色を楽しみ、まあ今日は良い夜でしたな、で終わりそうな場面です。

ところが、この二人はそうなりません。

岩崎弥太郎は、そこで渋沢栄一に事業の話を持ちかけます。

自分と渋沢の二人でやれば、日本の実業のことは何でもできる、というような話です。

とんでもない誘いです。

三菱の岩崎弥太郎が、渋沢栄一を口説きにきたわけです。

もしこの二人が本当に組んでいたら、日本の経済史はかなり違った形になっていたかもしれません。

しかし、渋沢栄一は岩崎弥太郎の独裁的な経営には乗りませんでした。

会社は一人のものではなく、多くの人の資本と知恵を合わせて作るべきだ。

渋沢栄一は、そう考えていたからです。

これに対して岩崎弥太郎は、そんなやり方では商売は成り立たない、もっと専制的にやる必要がある、と考えました。

酒の席で、船遊びの場で、芸者までいる。

それなのに、話題は会社組織と経営権です。

色気があるのか、ないのか、よくわかりません。

ただ、明治の大物同士の会話としては、ものすごく面白い。

表面だけ見れば華やかな宴席です。

しかし、そこで交わされていたのは、日本の会社は誰のものか、事業の利益は誰に帰るべきか、経営権は一人に集中させるべきか、それとも大勢で支えるべきか、というかなり根っこの深い議論でした。

渋沢栄一は、話がまとまらないと見たのでしょう。

最後はその場をうまく離れたと伝えられています。

ここで大事なのは、二人が単に仲が悪かったという話ではないことです。

これは性格の不一致というより、資本主義の作り方をめぐる衝突です。

岩崎弥太郎のやり方は、強い。

とにかく速い。

経営者が腹を決めれば、資金も船も人も一気に動く。

まだ国の形も産業の形も定まっていない明治の日本では、こういう強引な突破力が必要だったのも事実です。

だから岩崎弥太郎を、ただの独占好きとして片づけるのは違うと思います。

あの時代に三菱をあそこまで押し上げたのは、岩崎弥太郎の狂気じみた集中力があったからでしょう。

ただ、渋沢栄一から見れば、その力は危うくもありました。

特定の人物や家が大きな事業を握りすぎると、社会全体の利益よりも、その家の利益が前に出てしまう。

会社が公共の器ではなく、一家の道具になってしまう。

渋沢栄一は、そこに強い違和感を持ったのだと思います。

この違和感は、やがて海運をめぐる激しい対立につながります。

当時の海運は、今で言えば物流の大動脈です。

鉄道もトラックも十分ではない時代に、物を運び、人を運び、軍事にも貿易にも関わる海運を押さえることは、国の経済を押さえることに近い意味を持っていました。

そこに岩崎弥太郎の三菱が強烈に食い込んでいた。

政府の保護も受けながら、三菱は海運で大きな存在感を持つようになります。

渋沢栄一は、この状態を見過ごしませんでした。

一つの会社が海運を握りすぎることは、日本の商業や貿易にとってよくない。

そう考えた渋沢栄一は、井上馨や三井系の人々などとともに、三菱に対抗する共同運輸会社の設立に関わっていきます。

ここから、三菱と共同運輸の消耗戦が始まります。

値下げ競争もあったでしょう。
顧客の奪い合いもあったでしょう。

政府の思惑もあり、財界の思惑もあり、そこに渋沢栄一と岩崎弥太郎の経営思想の違いまで重なっている。

もはや単なる会社同士の競争ではありません。

明治日本の海を舞台にした、資本主義の主導権争いです。

結果的に、この争いは岩崎弥太郎の死後、三菱側と共同運輸側が合併して日本郵船が生まれる形で決着します。

しかし、ここまで見ると、渋沢栄一がただの温厚な調整役ではなかったことがよくわかります。

必要だと思えば、巨大な相手にもぶつかる。
しかも、感情でぶつかるのではなく、経営思想と社会観を背負ってぶつかる。

ここが、渋沢栄一の怖いところです。

一万円札の顔だけ見ていると、ずいぶん穏やかな人に見えます。

しかし、実際には、三菱の岩崎弥太郎と正面からやり合った男です。

しかも、相手は明治の怪物です。

そんな相手に向かって、あなたのやり方では社会のためにならない、と言える。

これはかなり胆力がいります。

一方で、渋沢栄一の裏側を語るなら、女性関係も避けて通れません。

ここは、きれいにまとめようとすると嘘っぽくなります。

はっきり言えば、かなり派手です。

正式な妻は二人いました。

最初の妻は、従妹でもあった尾高千代です。

渋沢栄一は18歳のときに千代と結婚しています。

千代は、渋沢栄一が郷里を離れ、一橋家に仕え、フランスへ渡り、明治政府に入り、やがて実業家として多忙を極めていく時期を支えた女性です。

ここだけを見ると、夫婦の絆の美しい話になります。

実際、千代に宛てた渋沢栄一の手紙も残っていて、渋沢史料館では、二人の関係に焦点を当てた企画展も行われています。

ところが、その美しい夫婦の話だけでは終わりません。

渋沢栄一には、千代とは別に大内くにという女性がいました。

大阪に赴任していた時期に出会った女性とされ、やがて渋沢家に入ってきます。

しかも、別宅に住まわせたというより、千代がいる家に同居したと紹介されることがあります。

現代の感覚では、かなり強烈です。

もし今の企業トップが、論語と算盤を語りながら、妻のいる家に別の女性を住まわせていたとなれば、SNSは炎上します。

たぶん、一万円札どころではありません。

もちろん、明治という時代背景はあります。

当時の有力者や富裕層のあいだでは、妾を持つこと自体が今ほど珍しい話ではなかった。

ただ、それでも別宅を用意する形が多かったとも言われます。

同じ家で暮らすとなると、話はだいぶ生々しい。

渋沢家の場合、千代と大内くにが同じ空間にいたことは、ただの恋愛話ではなく、家そのものの形を変える話です。

しかも、大内くには単なる隠れた存在ではなかったようです。

千代や渋沢家の女性たちと一緒に写った写真が残されているとも紹介されています。

ここまでくると、秘密の愛人というより、家の中に組み込まれていた女性です。

その状況を、千代がどう受け止めていたのか。

本当のところは、本人に聞くしかありません。

ただ、いくら時代が違うとはいえ、何の苦しさもなかったとは考えにくい。

夫は日本の近代化のために外で大きな仕事をしている。
その一方で、家庭の中には別の女性がいる。
そして、その女性との間にも子どもが生まれる。

これを「昔はそういう時代でした」で片づけるのは、少し乱暴だと思います。

人間の感情は、時代が違ってもそこまで都合よく変わりません。

嫉妬や諦めもあったでしょう。
家を守るために、飲み込んだものもあったでしょう。

ただ一方で、渋沢家の子どもたちが大内くにに懐いていたという話もあります。

もしそれが事実なら、この家の中の関係は、単純な正妻対妾という構図だけでは説明できません。

かなり複雑です。

嫌悪もあれば、依存もある。

不満もあれば、日々の暮らしの中で生まれる情もある。

家庭というのは、外から見たほど単純ではありません。

千代は1882年にコレラで亡くなります。

その翌年、渋沢栄一は兼子と再婚します。

兼子についても、資料によって書き方に幅があります。

豪商の娘とされる一方で、結婚前の経歴については伝承が混じり、はっきりしない部分もあるようです。

いずれにしても、千代が亡くなったあと、渋沢栄一は大内くにを正式な妻にしたわけではなく、外から兼子を迎えました。

ここも、かなり人間関係が濃い。

大内くには家の中に入り、子どもたちにも近い存在だったとされるのに、後妻として選ばれたのは別の女性だった。

当時の家格や世間体、親族関係、子どもたちの立場、いろいろな事情が絡んでいたのでしょう。

しかし、当事者たちの心の中が穏やかだったとは、なかなか思えません。

渋沢栄一は、正式な妻との間にも多くの子どもをもうけています。

さらに、正妻以外の女性との間にも子どもがいたとされます。

子どもの人数については資料によって数え方に差がありますが、少なくとも17人いたと紹介されることがあります。

会社を約500社育てた男は、家庭の方でもなかなかの規模感でした。

こう書くと少し笑い話のようになりますが、実際には笑いだけでは済みません。

そこには、妻がいて、妾がいて、子どもがいて、嫡出子と庶子がいて、それぞれに人生があります。

本人の豪快さだけで済ませると、周りの人たちの複雑な思いが消えてしまいます。

渋沢栄一は「論語と算盤」を語った人です。
道徳と経済を一致させるべきだと考えた人です。

しかし、私生活までその言葉で美しく整理できるかというと、かなり難しい。

道徳を語る人間が、必ずしも道徳的に澄み切っているわけではない。

これは、渋沢栄一を貶める話というより、人間を見るうえでかなり大事な話だと思います。

偉人というのは、後世になるほど磨かれます。

余計な汚れが落とされ、都合の悪い部分が横に置かれ、きれいな言葉だけが残っていく。

でも、それでは人物が薄くなります。

渋沢栄一は、きれいなことを言っただけの人ではありません。

実際に大きな仕事をしました。

銀行を作り、会社を育て、取引所や産業の整備に関わり、社会公共事業にも力を入れた。

その一方で、女性関係では現代の感覚から見て、かなり問題のある一面も持っていた。

この両方を見ないと、人物としての厚みが出ません。

私は、渋沢栄一を聖人として見るより、この面倒くささまで含めて見た方が、むしろ学べることが多いと思います。

なぜなら、投資で相手にする企業も経営者も、たいてい一枚岩ではないからです。

立派な理念を掲げる会社にも、裏では泥臭い利害があります。

社会に役立つ事業にも、競争相手との激しい争いや、社内の権力関係や、創業者の癖がついて回ります。

経営者が美しい言葉を語っているからといって、その人物の全部が美しいとは限りません。

逆に、どこかに欠点があるからといって、その人物の仕事まで全部が無価値になるわけでもありません。

渋沢栄一と岩崎弥太郎の対立も、そこを考える材料になります。

渋沢栄一は合本主義を掲げ、独占に反対しました。

それだけ聞くと、渋沢が正義で、岩崎が悪役に見えます。

しかし、岩崎弥太郎の集中型経営がなければ、明治の海運があれほど早く力を持てたかどうかはわかりません。

一方で、岩崎型の強さが行きすぎれば、社会全体の利益よりも一企業の支配が強くなりすぎる。

つまり、どちらにも力があり、どちらにも危うさがある。

ここが面白いのです。

投資でも同じです。

創業者が強烈な会社は、伸びるときには一気に伸びます。

判断が速く、方向転換も大胆で、普通の会社ではできないことをやってのけることがあります。

しかし、その強烈な個性が暴走すれば、会社全体が創業者の気分や欲に振り回されることもある。

一方で、合議を重んじる会社は安定感があります。

ただし、あまりにも全員の顔色を見すぎると、決断が遅くなり、勝負どころを逃すこともある。

結局、投資家は「良い会社」「悪い会社」という単純な分け方だけでは足りません。

その会社がどういう思想で動いているのか、その思想が今の時代に合っているのか、その強みがいつ危うさに変わるのか、そこまで見ていく必要があります。

渋沢栄一の裏話は、まさにこの視点をくれます。

表では論語と算盤を語る。
裏では岩崎弥太郎と激しくやり合う。

社会のために資本を流そうとする。
しかし家庭では、現代人が眉をひそめるような女性関係を抱えている。

人間は、そう簡単に一つの言葉で整理できません。

だからこそ、面白い。

きれいな物語だけを信じると、足元をすくわれます。

反対に、汚れた部分だけを見てすべてを切り捨てると、大事なものまで見失います。

大切なのは、表も裏も見たうえで、それでも何が残るのかを考えることです。

渋沢栄一の場合、女性関係にはかなり危うい部分がありました。

岩崎弥太郎との確執には、理念だけでは済まない生臭さがありました。

それでも、近代日本の経済に巨大な足跡を残したことは消えません。

むしろ、その生々しさまで含めて見ると、渋沢栄一が生きた時代の荒さがよく見えてきます。

明治という時代は、最初から整った社会ではありません。

制度も未完成で、会社の形もまだ試行錯誤で、家庭観も今とはまったく違う。

その中で、強い人間たちがぶつかりながら、今につながる経済の形を作っていった。

渋沢栄一は、その中心にいた人です。

そして、その渋沢栄一の血筋や思想は、今も完全に過去のものになっていません。

曾孫の渋沢雅英さんは、長く渋沢栄一記念財団に関わり、渋沢栄一について語り続けてきました。

また、玄孫にあたる渋澤健さんは、コモンズ投信の会長として、現代の資本市場の中で「論語と算盤」の考え方を伝えています。

一万円札の顔になったことで、渋沢栄一はまた現代に引っ張り出されました。

ただ、せっかく引っ張り出すなら、きれいな部分だけではもったいない。

岩崎弥太郎とぶつかった渋沢栄一。
妻がいる家に別の女性を住まわせたとされる渋沢栄一。
多くの会社を作りながら、多くの子どもも残した渋沢栄一。
道徳を語りながら、私生活では決して道徳の教科書どおりではなかった渋沢栄一。

こういう渋沢栄一まで見ると、急に人物が立体的になります。

投資も同じです。

表の美しい説明だけでは足りません。
決算書に表れる数字だけでも足りません。

経営者の言葉、事業の成り立ち、競争相手との関係、そこで働く人たちの熱量、そして表には出にくい弱さや歪みまで重ねて見ることで、ようやく会社の姿が少しずつ浮かび上がってきます。

もちろん、全部を見抜くことはできません。

しかし、少なくとも「見えているものがすべてではない」と思っておくことはできます。

これは、投資家にとってかなり大事な姿勢だと思います。

というわけで、今日は渋沢栄一の裏話でした。

岩崎弥太郎との確執を見れば、渋沢栄一は単なる調整型の善人ではなく、資本主義の形をめぐって巨大な相手とぶつかる人だったことがわかります。

女性関係を見れば、論語と算盤を語った人物であっても、私生活はとても一筋縄ではいかなかったことがわかります。

人間は、表だけではわかりません。
会社も、表だけではわかりません。
そして相場も、表だけ見ていると危ない。

一万円札の顔になった渋沢栄一は、たしかに偉大な人物です。

ただし、お札の中に収まるほど、きれいで薄い人ではありません。

もっと大きく、もっと複雑で、もっと人間くさい。

私は、そういう渋沢栄一を知る方が、投資家としてはずっと面白いと思います。