銀座のネオンを作り、最後に幽霊ビルを残した男。

こんにちは。
ソーシャルインベストメントのふなぐちです。

さて。

これまでこのメルマガでは、本多静六、是川銀蔵、本間宗久、渋沢栄一といった人物を取り上げてきました。

どの人物にも強烈な個性はありましたが、それでもどこかに「偉人」として学べる空気がありました。

ただ、世の中には、そう簡単に偉人とは呼びにくい人物もいます。

すごいのは間違いない。

でも、素直に尊敬できるかというと、少し考えてしまう。

才能はとんでもないのに、その才能の使い方や晩年の姿を見ると、どこか胸がざわつく。

今回は、そういう人物の話をします。

川本源司郎。

「丸源グループ」を作った男です。

名前だけではピンと来ない方もいるかもしれません。

ただ、銀座を歩いたことがある人なら、丸の中に「源」と書かれた、あの独特の看板を見たことがあるかもしれません。

私も、20代のころ銀座を歩くたびに、あの丸源ビルの看板が妙に気になっていました。

今、私は50代ですから、20代といえば、もうだいぶ前の話です。

そのころ銀座を歩くと、丸源ビルがあちこちにありました。

銀座といえば、もっと洗練された街という印象がありました。

高級ブランドがあり、老舗があり、きれいなショーウインドウがあり、どこか澄ました顔をしている街です。

ところが、その中に突然、赤や緑の強い色で「源」と書かれた看板が出てくる。

しかも一つではありません。

歩いていると、また丸源。
少し曲がると、また丸源。

当時の私は、その看板を見るたびに、銀座なのに、なんだか変な看板だなあと思っていました。

失礼な話ですが、本当にそう思っていました。

銀座というより、どこか地方の歓楽街の匂いがする。

でも、その違和感こそが、丸源ビルの正体だったのかもしれません。

丸源ビルは、昼の銀座ではなく、夜の銀座の建物でした。

スナック、クラブ、バー、キャバレー。

そういう店が上へ上へと積み上がった飲食ビルです。

表通りのきらびやかな銀座ではなく、少し奥に入った夜の銀座。

お酒を飲み、商談をし、見栄を張り、時には財布のひもがゆるむ場所。

川本源司郎は、その夜の銀座に、ビルという形で陣地を広げていった人です。

川本源司郎は、1932年、福岡県小倉市、今の北九州市に生まれました。

実家は呉服屋の「丸源」です。

慶應義塾大学に進んだものの、家業を継ぐために中退したとされています。

ここだけ聞けば、地方の商家の息子が家業を引き継いだ話です。

しかし、川本源司郎はそこで終わりません。

呉服屋をそのまま続けるのではなく、貸しビル業へ舵を切ります。

これが大きかった。

しかも、彼が目をつけたのは、きれいなオフィスビルではありません。

飲食店向けのビルです。

スナックやクラブが入る、いわゆるソシアルビルです。

今でこそ、飲食店ビルは普通にあります。

しかし、当時はこの形に大きな伸びしろがありました。

飲食店をやりたい人に、内装や家具を整えた状態で貸す。

小さな店がすぐに入れて、すぐに商売を始められる。

店主にとっては初期費用を抑えられ、大家にとっては高い収益が期待できる。

川本源司郎は、その構造を見抜いたのでしょう。

北九州から福岡へ進み、やがて東京へ進出します。

1972年に東京へ出て、1974年には銀座に10階建てのビルを建てたとされています。

そこから一気に広がります。

銀座、六本木、赤坂、福岡・中洲。

バブル期には、丸源ビルは約60棟に達し、入居テナントは約5900に上ったとも言われています。

数字だけを見ると、かなり異常です。

しかも、これはマンションや普通のオフィスではありません。

夜の店がぎっしり入るビルです。

一つひとつの店は小さくても、数が集まれば巨大な家賃の川になります。

川本源司郎は、その川を一代で作りました。

不動産投資というのは、土地や建物を持てば勝ちという単純なものではありません。

どこに需要があるのか。
誰が借りるのか。
いくらなら入るのか。
どんな設備なら回るのか。

入れ替わりが激しい業態で、どうやって家賃を取り続けるのか。

そういう現場感がなければ、飲食ビルの大家は務まりません。

川本源司郎には、おそらくそこをつかむ嗅覚があった。

銀座の一等地に、夜の店を積み上げる。

上品かどうかは別として、非常に儲かる形を作ったわけです。

そして、その儲け方もかなり独特でした。

川本源司郎は、「銀行借入に依存するタイプの不動産王ではなかった」と語られることが多い人物です。

バブル期の不動産成金というと、銀行からどんどん借りて、土地を買い、また担保に入れて、さらに買うというイメージがあります。

しかし、川本源司郎は、それとは少し違う。

もちろん、時期によって借入がまったくなかったかどうかは慎重に見るべきですが、少なくとも彼は、家賃収入と売却益をもとに、かなり自己資金色の強い形で不動産を増やした人物として語られています。

この点だけを見れば、堅実です。

派手な看板とは裏腹に、やっていることは現金商売に近い。

家賃を集め、そのお金を次の不動産に変える。

そしてまた家賃を集める。

この循環を、異様な執念で回した人です。

ただし、このあたりから、少しおかしな匂いもしてきます。

川本源司郎の経営には、組織の匂いがあまりありません。

大きな会社を作って、人を育て、幹部に任せ、事業を承継していく。

そういう普通の経営者の道とは違います。

多くのビルを持ちながら、どこか一人で全部を抱え込んでいるように見える。

店子を信用しない。
社員にも任せきらない。

会社を大きな組織として育てるより、自分の目と手の届く範囲に置いておきたい。

報道や関係者証言をたどると、川本源司郎にはそういう支配への強い欲のようなものが見えます。

ここが、今回のメルマガでいちばん考えたいところです。

資産を作る才能と、資産を人に任せる器は、まったく別物なのではないか。

川本源司郎は、資産を作る才能は怪物級でした。

しかし、それを組織に変え、次の世代へ渡し、社会の中で安定して残していくことについては、かなり苦手だったように見えます。

もちろん、本人からすれば、他人に任せる方が危ないという感覚だったのかもしれません。

夜の店を相手にした貸しビル業です。

家賃の滞納もあれば、トラブルもあるでしょう。

店が逃げることもあるでしょう。

きれいな理屈では済まない世界です。

だから、人を信用しないことで成功した部分もあったのだと思います。

ただ、その成功の型が、晩年にはそのまま弱点になった。

ここが怖いところです。

丸源ビルは、かつて夜の銀座の象徴でした。

しかし、バブルが崩壊し、夜の銀座の勢いが変わり、飲食店ビルの空気も変わっていきます。

一時は銀座だけで700店近いクラブやバーが入っていたともされますが、2010年代には、ピーク時の一割ほどにまでテナントが減っていたという記録もあります。

ひとつのビルに店子が一軒だけ、というビルもあったようです。

少なくとも丸源ビル全体として、空室が目立ち、かつての賑わいから大きく衰えていました。

私が20代のころに見た丸源ビルは、まだ違和感のある看板ではありましたが、そこにはたしかに存在感がありました。

あの看板は、銀座の中で少し浮いていました。

しかし、浮いているからこそ記憶に残った。

ところが晩年の丸源ビルは、目立つ看板があるのに、人の気配が薄い建物になっていきます。

ネオンは残っている。
名前も残っている。
しかし、中身が抜けていく。

これほど寂しいことはありません。

不動産というのは、建物だけでは成り立ちません。

そこに人が入り、商売があり、灯りがつき、声があり、空気が生まれて、初めて価値が立ち上がります。

どれだけ一等地のビルでも、人が入らなければ、それは資産というより、重たい箱です。

川本源司郎の晩年は、まさにこの「重たい箱」と向き合う時間だったのかもしれません。

そして、彼の不動産帝国は日本国内だけではありませんでした。

海外にもかなり派手に手を伸ばしています。

特に有名なのがハワイです。

1980年代から2000年代にかけて、川本源司郎はハワイやカリフォルニアで大量の住宅を取得しました。

ロサンゼルス・タイムズの記事によれば、1980年代の買いあさりで、ハワイと北カリフォルニアに800戸もの住宅を持っていたとされています。

普通の不動産投資家の感覚ではありません。

家を何軒か買うという話ではない。

街の一部をまとめて抱え込むような買い方です。

さらに、ハワイの高級住宅地カハラでも、川本源司郎の名前は大きく取り上げられました。

カハラといえば、ホノルルでも有名な高級住宅地です。

そこに川本源司郎は、多数の物件を持ちました。

ところが、現地での評判は必ずしも良いものではありませんでした。

使われず、手入れされず、荒れていく家。

庭に置かれた奇妙な像。

近隣住民からの不満。

一方では、ハワイ先住民の家族を安い家賃、あるいは無償に近い形で入居させたという話もあります。

これも、また川本源司郎らしい複雑さです。

単純な悪人ではない。
しかし、善人とも言い切れない。

地域社会から見ると、迷惑な大家に見える面がある。

一方で、本人の中では何かしらの信念や美学があったのかもしれない。

ただ、信念があったとしても、それが周囲を幸せにするとは限りません。

2013年、ハワイの大手不動産会社アレクサンダー&ボールドウィンは、川本源司郎からカハラの物件を含む31物件を約9800万ドルで取得したと発表しています。

さらに同年末には残る物件も取得され、カハラの川本物件は地元企業の手に移っていきました。

つまり、海外不動産もまた、最後には彼の手を離れていったのです。

不動産を大量に買う力はあった。

しかし、その街に根づかせる力はあったのか。

そこはかなり考えさせられます。

不動産投資というのは、利回りだけのゲームに見えます。

しかし、本当は場所との関係です。

そこに住む人、近隣の人、街の空気、行政、文化。

そういうものと向き合わなければ、不動産はただの所有物では済みません。

川本源司郎は、場所を買うことはできた。

しかし、その場所と良い関係を結ぶことについては、かなり危うかったように見えます。

そして晩年、最大の転落がやってきます。

脱税事件です。

2013年3月、川本源司郎は法人税法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕されます。

報道によれば、テナント料を売上から除外したり、ビルを売却したように装って架空の損失を計上したりした疑いが持たれました。

2018年、東京地裁は懲役4年、罰金2億4000万円の判決を言い渡します。

そして2021年、最高裁が上告を退け、実刑が確定します。

川本源司郎は米寿を過ぎて収監されることになりました。

ここもまた、ものすごい話です。

銀座に何棟ものビルを持ち、巨額の資産を築いた男が、最後は高齢で刑務所に入る。

しかも、資産がないから税金を払えなかったわけではありません。

むしろ、あり余るほど持っていた。

それなのに、なぜそこまで税金を嫌ったのか。

なぜ、国家を敵に回してまで、節税と脱税の境界線を踏み越えてしまったのか。

ここに、川本源司郎という人の深い闇があります。

闇、と言っても、単に悪い人だったという話ではありません。

おそらく、彼にとってお金は、ただの生活費や贅沢の道具ではなかった。

自分の力を証明するもの。
自分が誰にも支配されないためのもの。
自分の城を守るためのもの。

そういう意味を持っていたのだと思います。

だからこそ、税金で取られることが、普通の人以上に許せなかったのかもしれません。

しかし、資産家が税金を敵だと思いすぎると、最後は自分の資産そのものを傷つけます。

本来、税金は払いたくないものです。

私だって、喜んで払っているわけではありません。

しかし、払うべきものを払わないと、その瞬間からお金は自由ではなくなります。
いくら持っていても、追われるお金になる。

隠すお金になる。

守るはずの資産が、逆に自分を追い詰めるものになる。

川本源司郎の脱税事件は、そこを強烈に見せています。

そして、最後の問題が相続です。

ここも誤解しやすいところです。

川本源司郎は、生涯独身だったとされ、後継者を育ててこなかったとも報じられてきました。

そのため、彼が亡くなった後、丸源ビルは誰にも相続されず、国庫に入るのではないか、という見方まであったようです。

しかし、2024年の報道では、銀座の丸源ビルは複数の親族が相続し、その後、不動産業者などを通じて短期間で売却されたとされています。

つまり、法律上の相続がまったくなかったわけではありません。

ただ、ここで大事なのは、事業としての承継ができていなかったように見えることです。

親族が不動産を相続することと、丸源という不動産帝国を引き継ぐことは違います。

建物を受け取ることと、そこに宿っていた商売や思想や管理の仕組みを受け取ることは別物です。

川本源司郎は、あれほどの資産を作ったにもかかわらず、最後にそれを誰かへきれいに渡す道を作っていなかった。

少なくとも、外からはそう見えます。

だから、死後に残ったのは、事業の継承ではなく、不動産の処分でした。

ここがとても寂しい。

本多静六は、資産を作った後、それを社会へ渡しました。

渋沢栄一は、自分の死後も残る会社や制度を作りました。

一方、川本源司郎は、巨大な資産を築いたにもかかわらず、その資産は本人の人生と一緒に閉じていったように見えます。

もちろん、銀座の土地や建物そのものは残りました。

しかし、丸源という名前が持っていた異様な存在感は、本人がいなくなった瞬間に急速にほどけていった。

資産は残っても、事業は残らない。

お金は残っても、思想は受け継がれない。

ここに、この人の最大の悲しさがあるのではないでしょうか。

川本源司郎は、身を持ち崩した人なのか。

そう聞かれると、答えは少し難しいです。

なぜなら、亡くなるまで巨大な資産は残っていたからです。

普通に考えれば、身を持ち崩したというより、最後まで勝ち逃げしたようにも見えます。

しかし、私はそう単純には見られません。

たしかに資産はあった。
銀座のビルは高値で売れた。
相続もなされた。

けれども、あれほど銀座の夜に刻み込まれた丸源ビルは、最後には幽霊ビルのように語られるようになってしまいました。

本人は実刑を受け、海外の不動産では地域社会と軋轢を生み、国内のビルは空室や老朽化の問題を抱え、死後の資産処分にはさまざまな思惑が渦巻いた。

そう考えると、これは資産家としての成功であると同時に、人生の終わらせ方としては、かなり苦いものがあります。

投資家として、この話から何を学ぶべきか。

私は、資産を作る力だけを見てはいけないのだと思います。

資産を守る力、資産を活かす力、資産を人に任せる力、そして最後に資産を渡す力。
これらは、資産を作る力とは別の能力です。

川本源司郎は、作る力が圧倒的でした。

しかし、任せること、渡すこと、街と調和することについては、かなり危うかった。

そして、その危うさが晩年に一気に表へ出たように見えます。

これは個人投資家にも関係があります。

株でも不動産でも、増やすことばかり考えていると、いつか大事なところを見落とします。

その資産は、誰のためにあるのか。

自分が動けなくなったとき、誰が管理するのか。

税金や相続まで含めて、きちんと出口を考えているのか。

自分が握りしめているその資産は、自由をくれるものなのか、それとも自分を縛るものになっているのか。

川本源司郎の人生は、この問いを突きつけてきます。

20代のころ、銀座で丸源ビルの看板を見た私は、ただ「変な看板だなあ」と思っていました。

今になって振り返ると、あの看板は、ただの看板ではありませんでした。

一人の男の異常な商才と、夜の銀座の欲望と、不動産という資産の魔力が混ざった、かなり濃い記号だったのだと思います。

銀座の街に、あれほど似合わないようで、あれほど忘れられない看板もありません。

川本源司郎。

銀座にネオンを立てた男。

約60棟の飲食ビルと、5900ものテナントを抱えたと言われる男。

ハワイやカリフォルニアにも不動産を広げた男。

そして最後は、脱税で実刑を受け、死後には銀座のビル群が短期間で動いていった男。

偉人ではないかもしれません。

しかし、投資家が見ておくべき人物ではあります。

なぜなら、この人の人生には、資産を作ることの凄みと、資産に取り憑かれることの怖さが、両方とも詰まっているからです。

お金を持つことは大事です。
資産を作ることも大事です。

ただし、資産を作ったあと、自分がその資産の主人でいられるか。

それとも、いつの間にか資産に支配される側へ回ってしまうのか。

丸源ビルのネオンは、その境目を妙に生々しく照らしている気がします。